先週近畿税理士会の情報システム部会に出席した際、「『Claude』使ってる?」というお話を聞いたので、どんなものかなとClaude Codeを遅れ馳せながら使ってみました。
インストールはしたもののとりあえず何に使っていいのか分からないので(^^;、以前Geminiに作ってもらった小説と同じようなものを作りたいので設定してくれとお願いすると、自動で設定まで完了。

なるほど・・・。とりあえずClaudeに指示を出すときに、あらかじめ設定された前提条件を読んで対応してくれるから、一定条件のもとで作業するときに結果が安定してくるのかな・・・。

ロートルの頭ではなかなか理解が及ばないですが、とりあえず色々触ってみると分かってくるのでしょうか?
# 第1章「新しい顧問先」
## シーン1「その引き継ぎ、聞いてません」
阪急岡本駅の改札を出ると、坂道が始まる。
駅前にはベーカリーとコーヒースタンドが並び、朝のうちはパンと焙煎の香りが漂っている。
その脇の路地に入ると、空気が変わる。
古い石垣。苔むした門柱。生垣の隙間から覗く庭木。神戸の東、山手へ向かうこの坂道は、歩くたびに少しずつ静かになっていく。
十月のケヤキはまだ緑を保っていたが、縁だけが薄く黄みを帯びていた。
もうすぐ色が変わる、という手前の、中途半端な美しさだ。
僕はそれをわりと好きだと思っている。
完成する前の、まだ何者でもない感じが。
引き戸を開けた瞬間に、何か違うと思った。
コーヒーの香りに混じって、花か草か、やわらかい何かが漂っている。
窓際のソファに絹延橋みつ子さんが座っているのは、いつものことだ。
問題は、その前のローテーブルだった。
亜麻色のリネンクロス。白磁に薄青の草花を描いたティーポットとカップ。小ぶりのティーコゼー。花を一輪挿したガラスの小瓶。そして、木製の砂時計。
砂時計が、さらさらと流れていた。
去年読んだ雑誌の「英国アフタヌーンティー特集」で見た光景だ、と気づくまでに数秒かかった。
蒸らし時間を計っているらしい。
「おはようございます、雅之くん」
みつ子さんはカップを両手でそっと持ち上げ、目を細めながら香りを確かめた。
縦ロールの金髪にボルドーのリボン。袖口のレースが、朝の光に白く映えている。
朝の九時。会計事務所。リネンクロスの上で、一人でアフタヌーンティー。
この人だけ、いつも事務所の中にいながら、少し違う場所の空気をまとっている。
ここで少し補足しておくと、みつ子さんは三十一歳。
元上場企業の経理部門出身で、税理士試験にも合格している。どこへ行っても通用する人が、なぜかこの小さな事務所にいる。
本人に聞いたことはないが、聞けない雰囲気がある。
「今日はダージリンのファーストフラッシュですの。今年の春摘みの一番茶。色がきれいでしょう」
カップを傾けて、紅茶を光にかざして見せてくる。
明るいオレンジ色が、たしかにきれいだった。
「よろしければ一杯どうぞ」
「ありがとうございます。コーヒーで」
「まあ。もったいないこと」
もったいなくない、と思いながらコーヒーメーカーに豆を補充した。
木の廊下。年代物の柱時計。静かな執務室。
入所してほぼ二年になる今も、この事務所の空気は好きだ。
みつ子さんが一輪挿しを持ち込まなければ、という条件付きだが。
——そもそも、この事務所の朝には決まった順番がある。
コーヒーの香りがして、柱時計が響いて、静かに仕事が始まる。
みつ子さんの英国式朝茶会は、その順番のどこにも書いていない。
「おはよう、雅之くん」
川西撫子さんがデスクで書類を整えながら声をかけてきた。
三十三歳。濃紺のジャケットに膝丈のスカート、胸元まである黒髪。実質的な司令塔で、顧問先からも同僚からも信頼が厚い。
僕が入所してから一度も、この人が慌てた顔をしているのを見たことがない。
慌てないのではなく、慌てを外に出さない人だと思っている。
「おはようございます。今日のスケジュール、確認させてもらえますか」
「もちろん——」
言いかけたとき、所長室のドアが開いた。
能勢文雄所長が、白髪交じりの頭を掻きながら出てくる。
片手にコート、もう一方に分厚い封筒。朝からどこかへ出るつもりらしい。
満足そうな顔をしている。
これが危ない。
「おお、鳥居くん、ちょうどよかった」
経験上、「ちょうどよかった」の次には仕事が一つ増える。
「丸岡印刷さんの月次、今日から君に担当してもらうから」
「はあ」
「先月突然辞めた竹内くんが担当だったんだけど、ずっと宙に浮いてて。今日ちょうど鳥居くんがいたから」
「引き継ぎは」
「ないね」
あっさり言った。
「でも資料は撫子ちゃんのところにあるから大丈夫。あと今日の午前十時に訪問の約束が入ってるから、それもよろしく」
午前九時十分。訪問まで五十分。
「十時……ですか」
「灘区だから急げば間に合う。先代の社長の代からのお付き合いだから、丁寧にね。じゃあ」
「あの、概要だけでも——」
「撫子ちゃんが説明してくれるから。じゃあ」
ドアが閉まり、引き戸が開き、また閉まった。
静かになった。
先月退職した担当者。引き継ぎなし。ひと月宙に浮いていた顧問先。訪問まで五十分。
それで「丁寧に」らしい。
能勢所長のこういうところは、二年経っても慣れない。
慣れたくない、という気持ちもある。
みつ子さんがおもむろに砂時計をひっくり返した。
さらさらと、また砂が流れ始める。
「雅之くん、落ち着いて」
撫子さんがすでにファイルを手に立ち上がっていた。
「丸岡印刷株式会社、神戸市灘区。従業員三十名の印刷会社。二代目の丸岡康生社長は穏やかな方だから、そこは心配しなくていいわ。初回だから顔合わせと帳簿確認だけで十分。これが資料」
「竹内さんの引き継ぎ資料は」
「残ってないの」
少し申し訳なさそうに、でも淡々と言った。
「急に辞めたから。帳簿と月次データはあるから、まずそれを手がかりに」
引き継ぎなし、情報ゼロ、訪問まで四十五分。
会計事務所あるある、と自分に言い聞かせた。
それでどうにかなるものでもないけれど。
「雅之くん」
みつ子さんが、カップを置きながら言った。
さっきよりすこし、声のトーンが変わっていた。
「印刷会社は損紙が出るのよ。規格外の紙や刷り損じ。廃棄の流れがある会社は、帳簿の数字だけじゃなく、現場の管理まで確認しなきゃいけませんわ」
窓からの風に、一輪挿しの白い花がわずかに揺れた。
「帳簿を眺めて、問題なさそうです、で帰ってくる——それがいちばんいけないことですのよ」
みつ子さんにこういうことを言われると、「気をつけよう」より先に、もう何か始まっているのではないかという気持ちになる。
この人がそういう顔をするとき、たいていそういうことだ。
アフタヌーンティーを一人でやっていても、見ているものはいつも僕よりずっと遠い。
「わかりました。現場もきちんと確認してきます」
撫子さんがうなずいた。
「丁寧に、ね」
コーヒーを一口飲んでから、カバンを持って立ち上がった。
窓の外、岡本の坂道を自転車が一台、のんびりと下っていく。
石垣沿いのケヤキが朝の光を受けて、葉の縁を薄く金色に光らせていた。
丸岡印刷。先代からの顧問先。実直な社長。初回の帳簿確認。
それだけのはずだった。
## シーン2「丸岡印刷・初訪問」
事務所を出て、坂道を下った。
岡本から摂津本山は歩いて数分だ。神戸線のホームに立つと、海側から風が吹いてきた。
十月の午前、空は高い。
案内表示に「西明石行き」と出て、乗り込んだ。
三駅。十分もかからない。
それだけの距離でも、車窓の景色は変わっていく。
摂津本山のあたりは落ち着いた住宅街だが、灘駅が近づくにつれて建物の密度が上がり、古い看板が増えていく。
坂を下るように、町が変わっていく感じがした。
JR灘駅の改札を出て、南へ歩いた。
岡本とは逆方向だ。
あちらは山へ向かうにつれて静かになっていく。こちらは海へ向かうにつれて、町の密度が上がっていく。
古い商店。看板の色褪せた食堂。マンションの一階に埋まった小さな工場。
阪神電車の高架をくぐると、さらに空気が変わった。
海に近い低い土地の、ざらりとした感触がある。
岩屋駅の周辺は印刷所や小さな倉庫が混在していて、平日の昼間でも荷車やトラックが路地を行き来していた。
丸岡印刷は、その一角にあった。
二階建ての自社ビル。白い外壁は少し黄ばんでいるが、玄関まわりは掃き清められて、プランターに小菊が植えてある。
ガラス戸の向こうで、輪転機だろうか、低い振動音が聞こえていた。
引き戸を開けると、インクの匂いがした。
紙と油が混ざったような匂い。
でも不快ではない。どこか懐かしい感じさえする。
受付の女性に名刺を渡すと、「少々お待ちください」と奥へ引っ込んだ。
待つあいだ、ロビーを眺めた。
壁に額入りのカレンダーが何枚か飾られている。飲食店や医院の名前が入った、丁寧な印刷物。
その隣に、白黒写真が一枚。
工場の前に並んだ従業員たち。古いものだが、きちんと額に入れてある。先代の時代のものかもしれない。
こういう会社が、うまくいってほしい、と思う。
来て数分で思うことではないかもしれないが、そういう気持ちになった。
「お待たせしました。鳥居先生でいらっしゃいますか」
廊下の奥から、がっしりとした体格の男性が出てきた。
五十代。紺の作業服に会社名の刺繍が入っている。袖口にわずかにインクの汚れ。現場から出てきたばかりなのだろう。
穏やかな目をしている。
「丸岡でございます。能勢会計事務所さんには、父の代からお世話になっております。川西先生にはいつも助けていただいて」
「鳥居といいます。本日からよろしくお願いします」
名刺を受け取ってもらいながら、内心で少し恐縮していた。
「先生」と呼ばれるのはまだ慣れない。
特に、こういうしっかりした年配の方に言われると、自分が何者なのかわからなくなる気がして。
「若い先生が来てくださって、社員たちも喜ぶと思います。さ、どうぞ」
通された応接室は小ぢんまりしていたが、きれいに整えられていた。
ソファに座ると、すぐにお茶が出てきた。
少し遅れて、細身の女性がノートパソコンを抱えて入ってきた。
「妻の智香です。うちで経理を担当しています」
「よろしくお願いします」
丸岡智香さんは、テーブルにパソコンを置いてこちらへ向け、画面を開いた。
「帳簿はこちらに用意しています。わかりにくい点があったら遠慮なく聞いてください。ただ……私、経理は自己流で。ちゃんと見ていただけると助かります」
「ありがとうございます。一緒に確認させてください」
画面には月次の試算表が表示されていた。
売上、仕入、外注費、水道光熱費、人件費。摘要も几帳面に記入されていて、智香さんの人柄が窺える。
自己流、と本人は言ったが、数字の扱いは実直だ。
帳簿というのは、つけた人間の性格が出る。
スクロールしながら各項目を確認していくうち、一つの行で手が止まった。
「損紙」——みつ子さんが言っていたのはこれか。
「この損紙の処分費というのは——」
「紙の廃棄ですね」
丸岡社長がすぐに答えた。
「印刷って、どうしても規格外の紙が出るんですよ。刷り損じとか、端材とか。それを古紙回収業者さんに引き取ってもらってます。堂本が管理してますから、詳しいことは彼に聞いてもらえると」
「堂本さんというのは」
「倉庫担当のベテランです。もう二十八年になりますかね。うちでいちばん頼りになる人間です」
画面を目で追いながら、全体を確認した。
売上の動きは自然で、大きな増減もない。仕入れと外注費の比率もだいたい安定している。廃棄処分費の欄は、突出した金額ではなかった。
いい会社だな、と思った。
社長は誠実で、奥さんの帳簿も実直だ。工場は清潔で、従業員の様子も落ち着いている。
先代から続く信頼の積み重ねが、この会社の空気を作っているんだな、と。
——これが油断だったと、後で気づくことになる。
でもこのときの僕には、そんな予感のかけらもなかった。
「あの、倉庫も少し見せてもらえますか」
頭のどこかに、みつ子さんの声が残っていた。
帳簿を眺めて、問題なさそうです、で帰ってくる——それがいちばんいけないことですのよ。
あのときは急いでいて、半分しか聞いていなかった。
でも今は、ちゃんと聞こえていた。
「もちろんです」
丸岡社長は立ち上がりながら、廊下に向かって声をかけた。
「堂本さん、ちょっといいですか」
## シーン3「倉庫の案内人」
廊下の奥から、足音がした。
重たくて、でも軽やかな足音。
大柄な人間が慣れた場所を歩くときの、あの感じだ。
「お、先生が来てくれはったんですか」
現れたのは日焼けした顔の男性だった。
五十代半ば。がっしりとした肩幅。作業服の胸元に「堂本」と刺繍されている。
人懐っこい笑顔で、右手を差し出してきた。
「堂本いうもんです。この倉庫、二十八年仕切ってますんで。先生、何でも聞いてください」
「鳥居といいます。よろしくお願いします」
握手の手は固かった。
二十八年分の仕事が染み込んでいるような、いい手だ。
丸岡社長に「あとはよろしく」と言われ、堂本さんに倉庫へ案内された。
倉庫は建物の裏手にあった。
引き戸を開けると、紙の匂いがした。
さっきのインクとは違う、乾いた紙そのものの匂い。天井まで届く金属棚が整然と並び、紙の束がパレットに積まれている。通路はきれいに掃かれていて、台車が隅に揃えて置いてある。
「きれいに整理されてますね」
「当たり前ですわ」
堂本さんは胸を張った。
「うちの倉庫が汚かったことは一度もない」
自慢ではなく、事実として言っている口調だった。
「損紙の管理と、廃棄の流れを教えていただけますか」
「ああ、損紙ですか」
堂本さんは棚の一角へ歩き、段ボールに仕分けられた紙の束を示した。
「印刷やと必ず出るんですわ。色合わせのときとか、刷り出しの調整とか。それが損紙です。これを月に一回、廃棄業者さんに出してます。伝票もちゃんと残してますよ」
ファイルを持ち出してきた。
几帳面に日付と数量が書かれた伝票が、月ごとに綴じてある。
「見ますか」
「ありがとうございます」
数枚めくりながら確認した。
廃棄業者の名前、引き取り量、金額。整然としている。
堂本さんは倉庫を案内しながら、よく喋った。
印刷の工程のこと。損紙の種類のこと。先代社長の時代から変わらないこの倉庫のこと。
話しぶりは気さくで、若い担当者に対しても偉ぶった様子が一切なかった。
「先生、倉庫なんか見ても面白ないでしょ」
堂本さんは笑いながら言った。
「紙のことは紙の人間にしかわかりませんよ」
「いえ、勉強になります」
「いやいや、こっちが先生に教えてもらうことの方が多いですわ。こういう細かいこと、会計事務所の先生方にはわかりにくいでしょうし——まあ、俺らに任せといてくれたら大丈夫ですよ」
そう言って、また人懐っこく笑った。
「先生、何か気になることありましたら、いつでも言うてください。うちは隠すもんなんか、何もないですから」
何しろ、この人はよく笑い、よく喋り、聞かれる前に伝票を出してくる。
その言葉は、あまりにも自然だった。
疑う理由など、どこにもなかった。
「ありがとうございます。今日はいろいろ教えていただいて」
「いえいえ。またいつでもどうぞ」
倉庫を出て、応接室で智香さんに挨拶し、丸岡社長に見送られて会社を出た。
灘駅まで歩きながら、今日のことを頭の中で整理した。
誠実な社長。真面目な奥さん。ベテランの倉庫担当。整頓された倉庫。几帳面な伝票の束。
いい訪問だった。
みつ子さんに言われた通り、現場もちゃんと見てきた。
特に問題らしいものは何もなかった。
ホームに入ってきた電車に乗り込み、座席に腰を下ろした。
窓の外、灘の低い街並みが流れていく。
今日はいい仕事ができた、と思いながら、目を閉じた。
——堂本さんの「うちは隠すもんなんか、何もないですから」という言葉が、もう一度だけ頭の中で響いた。
それを流して、目を閉じたままにした。
## シーン3補「岡本の坂道、夕方」
摂津本山の改札を出ると、空の色が変わっていた。
午前中はあんなに高かった青が、西の方から少しずつオレンジに押されていた。
まだ夕方というには早いが、もう昼でもない。
十月の光は変わるのが早い。
岡本へ向かう坂道を上りはじめた。
朝は下った道だ。
同じ石垣、同じケヤキ並木。でも光の角度が違うだけで、見え方がずいぶん変わる。
朝は葉の縁が薄く金色に光っていたが、今は幹の方に光が当たっていて、石垣の苔が濃く見える。
同じ坂道が、少し違う場所みたいだった。
歩きながら、今日のことを反芻した。
丸岡康生社長の、穏やかな目。智香さんの几帳面な帳簿。整頓された倉庫、揃えられた台車、月ごとに綴じられた伝票。そして堂本さんの、人懐っこい笑顔。
いい会社だった。
本当にそう思う。
——うちは隠すもんなんか、何もないですから。
堂本さんの声が、また一度だけ頭の中を通り過ぎた。
自然な言葉だった。
あの場の流れで出てくる、ごく普通の一言だ。
隠しているものがある人間が言う台詞ではない。そもそも、何かを隠しているという根拠が何もない。
帳簿は整っていて、伝票もある。現場もきれいだった。
みつ子さんに言われた通り、ちゃんと確認してきた。
それで十分だ。
坂の途中で立ち止まり、振り返った。
灘の方向、低い街並みの向こうに、海がわずかに光っている。
曇っているわけでもないのに、どこかぼんやりとした光だった。
何かが引っかかっている、とは思わなかった。
ただ、歩き出すのに少し間があいた。
それだけのことだ。
坂を上りきると、事務所の白いタイルが夕方の光を受けていた。
朝より少し黄ばんで見えるのは、光のせいだろう。表札の「能勢会計事務所」という文字が、いつもより小さく見えた気がした。
引き戸を開けると、コーヒーの香りがした。
それからみつ子さんの、草か花か、やわらかい何かの香り。
まだいたのか、と思いながら靴を脱いだ。
「おかえりなさい、雅之くん」
みつ子さんは窓際のソファで、今度は本を読んでいた。
ティーセットはもう片付けられていて、テーブルの上には文庫本と、小さなガラスの一輪挿しだけが残っている。
「ただいま戻りました」
「どうでしたか」
どうでしたか、と聞かれると、自然に「問題ありませんでした」と答えそうになる。
でも少し間を置いた。
「いい会社でした。社長も、経理担当の奥さんも、倉庫のベテランも、みんな誠実な方で」
「そう」
みつ子さんは本から目を離さないまま、短く言った。
それきり、何も聞いてこなかった。
何か言われるかと思っていた。
損紙の確認はちゃんとしてきましたか、とか。現場の管理はどうでしたか、とか。
でもみつ子さんはただ、文庫本のページをゆっくりとめくった。
それが何を意味しているのか、このときの僕にはわからなかった。
## シーン4「数字の違和感」
カバンを置いて、デスクに座った。
今日の訪問記録をまとめようとノートを開いたが、手が止まった。
みつ子さんは、まだ本を読んでいる。
ページをめくる音だけが、静かな執務室に小さく響いていた。
コーヒーメーカーのランプが赤く点いている。
外の光が、少しずつ落ちていく。
ノートに「丸岡印刷 初回訪問」と書いたところで、みつ子さんが本を閉じた。
音もなく、ゆっくりと。
「雅之くん」
「はい」
「損紙の処分費、今日、画面で見たかしら」
「見ました。廃棄業者への支払いが、月ごとに」
「過去と比べて、どう見えた?」
少し考えた。
「……そんなに大きな金額じゃなかったですね。突出してはいなかった」
「そうね」
みつ子さんは静かに立ち上がった。
みつ子さんがデスクに向かうのを、僕は少し意外な気持ちで見ていた。
この人はいつも自分のペースで、こちら側とは違う速度で動いている。紅茶を蒸らし、本を読み、窓の外を眺める。
同じ執務室にいながら、どこか別の場所にいるような人だ。
それがいま、パソコンを開いてこちらへ画面を向けている。
同じ地面に降りてきた、という感じがした。
「これを見てちょうだい」
月次のデータが並んでいた。
今年のものではない——五年前から現在まで、年次で並べた損紙処分費の推移だ。
右肩下がりに、はっきりと落ちていた。
「……減ってる」
「半分以下ですわ」
みつ子さんは画面の一点を指した。
「ここが五年前。ここが今年。でも、この間の売上高と印刷ジョブ数はどう?」
別のシートに切り替える。
売上の折れ線グラフ。ほぼ横ばいだ。
「変わってない」
「ええ。損紙は印刷量に連動して出るものでしょう。刷れば出る、刷らなければ出ない。でも印刷量が変わっていないのに、処分費だけが五年で半分以下になった」
画面を見ながら、頭の中で今日の光景を思い出していた。
整頓された倉庫。几帳面に綴じられた伝票。
「隠すもんなんか何もないですから」と笑った堂本さんの顔。
「堂本さんが、ちゃんと記録してると……伝票も見せてもらいましたし」
「記録してる、は残してる記録の話ね」
みつ子さんは静かに、でも断言するように言った。
「存在しない記録は、記録されないものよ」
一瞬、言葉の意味が飲み込めなかった。
飲み込めた瞬間、背筋の辺りで何かが動いた。
あの伝票は整っていた。日付も数量も、几帳面に書かれていた。
でも、それは「ある記録」の話だ。
そこに載っていない廃棄が、もしあったとしたら——伝票には何も残らない。
確認しようがない。
でも。
あの堂本さんが。
あんなに丁寧に案内してくれた人が。
「処分費だけが減る理由は、いくつか考えられる」
みつ子さんは続けた。
「業者が変わって単価が下がった——それなら新しい業者との契約書があるはず。損紙の管理が改善された——でも印刷量が変わらないのに、ロスだけが五年で半分になるというのは」
「普通じゃない」
「普通ではありませんわね」
静かな一言だった。
否定でも断定でもない。ただ、事実として置かれた言葉だ。
しばらく、誰も何も言わなかった。
奥のドアが開いて、撫子さんが出てきた。
いつからそこにいたのかはわからない。
「雅之くん、明後日もう一度、丸岡印刷さんに行ってもらえる? 今度は損紙の処分の流れを、数字を持って確認してきて」
「……はい」
「何もないかもしれない」
撫子さんは穏やかに言った。
「でも、数字が何かを言おうとしているときは、聞いてあげるものよ」
みつ子さんがパソコンを閉じた。
カチ、という小さな音が、執務室に響いた。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。岡本の坂道に街灯が点っていて、ケヤキの葉が風に揺れるたびに、その影が揺れる。
朝、あの葉の縁が薄く金色に光っていた。
まだ何者でもない感じが好きだと思いながら、坂を上っていた。
いい会社だと思っていた。
堂本さんのことも、いい人だと思っていた。
でも、数字は。
五年で、半分以下。